「無邪気な快楽主義者」―SIDE K

 

お使いの帰り道。

僕は近道をするために有刺鉄線の巻かれた塀を越えて、普段はあまり通らない裏道を走っていた。

シナに早く帰って来るように言われてたのに、すっかり遅くなってしまった。

怒られるだろうなって思いながら、でも嬉しいことがあったから、頬が緩む。

先週街を出て行ってしまった果物屋のおばさんが帰ってきてくれたんだ。

「やっぱり私がいなきゃ、この街はダメなのよ」って笑いながら、オレンジをおまけしてくれた。

それで、ついつい話し込んで遅くなってしまったんだけど…。

「見捨てられた街」を見捨てない人だっている。

こんな状況でも、街にはたくさんの人が残ってる。

水も電気も不安定だけど、ちゃんと通ってるし、治安だって良くはないけど、目茶苦茶やってるのはほんの一部なんだ。

「お願い!返して!」

僕の上機嫌は子供の悲鳴で止められた。

慌てて声のした路地に飛び込むと、揉めている様子の小さな女の子と数人の男たち。

女の子は男の一人の足に縋るようにしがみついていた。

なんとなく、状況はわかった。

男たちは僕を見て、すぐに僕の持っている買い物袋に目を移した。

「よこしな。殺さないで逃がしてやるからよ」

足を掴まれていた男が言って、強引に女の子の手を振りほどく。

男は3人。

僕は女の子が人質に取られないように、買い物袋を投げ渡すと同時に跳び、男たちの頭上を越えて女の子の前に着地した。

その動きを呆気にとられたまま見ていた男たちは、僕が立ち上げると同時にナイフを抜いた。

刃物の鈍い光を見ていると、僕はお腹の奥が熱くなるような緊張に駆られる。

この前、シナに怒られたばかりなのに…。

女の子を庇いながら、ナイフの切っ先を避ける。

男の腕を蹴り上げてナイフを飛ばしてしまえば楽なのだけど、駄目だ。

きっと止まらなくなる。

手を、出したら。

外に出ようと暴れる自分の狂気をなんとか抑えながら、僕はじりじりと後ずさった。

男たちは慣れた様子でナイフを操り、躊躇無く急所を狙ってくる。

人を殺したことがある人間だ。

目を見れば判る…同じ穴のムジナだから。

きっとこのナイフもたくさんの血を…。

血の滴るナイフを想像して、僕は震えた。

恐怖からじゃなく、どうしようもなく喉が渇いて。

唾を飲み下す感覚が、生々しく。

…僕は、血に、飢えていた。

気付いた事実に愕然とした僕の腕を、ナイフが掠めた。

鋭い痛みと袖の裂け目からちらつく自分の血…。

瞬間、弾けるように脳裏にブラッディ・マリーのグラスが走り、僕は正気を手放した。

にやりと笑うもう一人の僕。

暗い路地。

心地良い殺気と澱んだ空気。

闇に光る刃物。

目覚めには最高のシチュエーション。

長くゆっくり歓喜の息を吐きながら、僕は覚醒した。

どっと流れ込む狂喜。

鋭く空を切ったナイフを手で弾き飛ばず。

はっきり覚えてるのは、ここまでだ。

 

 

強烈な快感と酩酊感。

視界はもやがかかってぼんやりスローモーションなのに、男たちの叫喚だけがやけにクリア。

それをBGMに狂ったような赤い月の下で狂乱の宴。

殴る手の痛みも返り血が頬を伝う感触も、すべて夢うつつで感じない。

ただただ狂気に酔い痴れる。

この時の歓楽を、僕は形容できない。

麻薬に似てるのかな…。

誰を殺しても、誰に殺されてもいいって純粋に心から思う。

人であることを忘れそうだ。

…忘れてるのかもしれない。

うっとりと陶酔していた僕の鼻を嫌な臭いが掠めた。

煙草…?

風に乗って僕の鼻先を通り上にのぼっていく白煙をなんとなく目で辿る。

間合いに誰かいるのがわかった。

でも、動けなかった。

だって、これは……。

なんだっけ…わかるのに、名前が思い出せない…。

すぐ近くでふーと息を吐く音がして、きつい煙草の臭いと煙が鼻と目を貫いた。

びっくりして飛び退き、手の平で顔を覆って噎せ返る。

「この駄犬。満足に使いもできないわけ?」

思い、出した…。

煙が沁みて涙の滲んだ目で見た先に、

「シ…ナ…」

「戻ってきた?帰るわよ」

僕の横を通り過ぎて、さっさと歩き出す。

条件反射のようにその背中を追いかけようとして…。

僕は息を呑んだ。

腰まであったシナの長い赤い髪が…ざっくり切れて不揃いになっていた。

はっとして自分の周りを見渡すと、さっきの3人の男がぴくりとも動かず地に伏していて、

恐怖で上手く呼吸が出来ない女の子が僕を凝視しながら壁に張り付いていた。

そして、散らばっている赤い髪。

思い出せない、思い出せないけど…。

よろよろと立ち上がった僕を見て、女の子は短い悲鳴をあげて崩れ落ちた。

…ごめん。

助ける、つもりだったんだ…。

すぐ足元に男の手から弾いたナイフが落ちていた。

シナの赤髪が数本絡み付いている。

「カルマ」

押し殺した声で呼ばれる。

思考量が許容量を超えて、僕は考えることを放棄した。

ただ、泣くことだけは僕には許されないと頭の中で繰り返し自戒して、シナにゆっくり付き従う。

刻示さんが僕を殺してくれればいいのに、と思った。

 

 

革命を求める独裁者」  TEXT  「背中合わせの日常