「彼女の高潔」―SIDE L

 

 

部下の持ってきた資料に一通り目を通し、俺は薄く笑った。

「リシ様…?」

資料に不手際があったかと、不安そうにこちらを窺う部下を下がらせ、天井を仰ぐ。

危険だね。

カルマ…名前は初めて知ったけど、写真の顔は見覚えがある。

この辺りじゃ有名な裏通りのバーで、シナルクとかいう女主人に、ちょこちょこ付いて歩いてたガキだ。

バックがシナルクか、また厄介な…。

シナルクは国に古くからあるマフィアの幹部、刻示の女だ。

ベタ惚れって噂だからねぇ…あんなのに目を付けられたら今の力じゃとても太刀打ちできないっての。

…だからと言って、この猛獣を野放しにしておいて良いものか…。

孤児で過去の記憶、記録は無し。

2年ほど前にシナルクに拾われる、か。

ずいぶん殺してるな、まったく。

わかってるだけで40弱…ケガ人入れたら三桁かよ。

相手も相手だから放っておいたんだけど…。

イスを回転させてテーブルに足を上げる。

そろそろ手を打たないとなぁ。

歳の割りにあどけない、先日対峙したときとは大違いの横顔を、爪でカツカツとつつき、俺は手帳を開いた。

 

 

 

ホント、金ってのはあるところにはあるもの。

屋敷の豪華絢爛さはもとより、このグラスひとつも、庶民育ちの俺としては、吹き出してしまいそうな値段。

もちろん、おかしくてね。

なんで金持ちってのはこう、無駄に金を使いたがるんだか。

でも、こういう場で顔を売っておくのは悪くない。

あからさまに嫌な顔をする奴らもいるけど、貴族ってのは顔には出しても行動には出さないって人種だし。

つつがなく終わりそうなパーティを見るともなしに眺めていると、

「リシ様」

聞き慣れた声に呼ばれた。

決して大きな声ではなかったけれど、会場を静める効力は充分すぎるほど。

「本日はご出席くださり、ありがとうございます」

ミシェルは周囲の視線を気にもとめず、堂々と俺に話しかけた。

むしろ見せ付けるように俺との距離を詰める。

大胆だねぇ。

俺のことが大嫌いな保守派の連中に、挑発的だと取られても仕方ない振る舞い。

絶対わざと。

子供じみた態度を諫めるために一歩下がり、アイコンタクトで呼び付けたボーイから取ったグラスを差し出す。

「この度は真におめでとうございます。お招き頂き光栄です」

ミシェルはグラスを手にして、横目でちらりと周囲を窺うと、

当たり障りの無い情勢の話や、俺の記憶には無い俺たちのデートの話をし始めた。

本当にいつもの事とはいえ…。

客たちも俺たちに興味を失い、それぞれの挨拶と会話に夢中になりだした頃、ミシェルは不意に言った。

「フランツを殺されたそうですね」

「…ええ」

「彼は私の婚約者でした。もうずいぶん前…父が生きていた頃の話ですが」

グラスを傾け、遠い目をした彼女は、次の瞬間にはわざとらしいほど隙の無い笑顔を上品に晒した。

「ねぇ、リシ様。私は人を殺すくらいなら殺された方がずっとマシだと思っておりますわ。生ける獣よりは死せる人でありたいと」

「だから、貴方を好きな気持ちと同じだけ、貴方を軽蔑します」

真っ直ぐに言い切って、軽く小首を傾げる。

なんとも豪快で思い切った発言だね。

殺人を嫌悪する奴は多いけど、そのほとんどが自己防衛なら仕方ないって意見なのに比べたら、

あまりにも極端で猪突猛進。

でも、こんなに潔い人だからこそ、手を組もうと思ったってのも事実。

「ですが、ミシェル。大切な人が命を奪われるとしたら?それでも貴女は武器を手にしないのですか?」

ちょっと意地が悪いって自覚しつつ、質問してみる。

ミシェルは少しも動じることなく、ゆっくりと赤い唇を開いた。

「もちろん状況如何ですが、私たちは落ちぶれても貴族ですので、実より名を取る生き物なのです。

貴方のようなリアリストにはお笑いでしょうが、この世界に骨の髄まで浸透している私は、プライドのために死ねるのです」

語尾に付属した、自嘲めいた笑みはすぐに消えた。

「大切な人が誰かを殺めるくらいなら、その人が殺される方が私にとっては幸福です。

死ぬことは不名誉ではありませんが、殺すことは不名誉だからです」

幼い戦士はグラスに残った最後の一口を、憐れとも呼べる賢い喉に流し込み、

空になったグラスを当然のように俺に渡した。

尊大な行動なのに、瞼を伏せ、手を添えてグラスを差し出す姿は恭しく、

俺は神聖なものを授かるようにそれを受け取った。

「幼い…いえ、若いですね、貴女は」

彼女は返事をすること無く、ただ微笑んだ。

ホント、笑っちゃうくらい難儀な人だね…。

 

 

 

いつものサインで任務完了を確認し合い、バラバラに散って、俺とグナは帰路についていた。

今回殺したのは俺じゃない。

今日の俺はただの見学者。

まぁ現場監督みたいなものだった。

やったのは数週間前、天使みたいな美少年を殺せなかった新人2人。

鍛えた甲斐があって良かったよ。

一仕事終えた飲み会の代わりに俺たちが向かったのは事務所の裏にあるガレージ。

ついさっき殺した薬の売人の資料をもう一度丹念に見直す。

戦争の混乱に乗じて、自分でつくった粗悪な薬で荒稼ぎしてた奴だ。

薬だって多少は必要悪だけど、単独で勝手をされちゃ困る。

しかも、俺たちの組織の名前を騙って。

命知らずで、割と頭も切れる、面白い男だったんだけどね。

爽やかに言うなら、違う形で会いたかった、ってやつかな。

よーく内容を記憶して、俺はジッポを取り出した。

禁煙するからって、グナから貰った、傷だらけの古いジッポで資料に火を点す。

ピラピラの紙はすぐにめらめら燃え上がった。

グナはいつも通り目を閉じて、紙が燃える音だけを聴いている。

初めて人を殺したときから変わらない、俺たちの儀式。

馬車の近付く音にも、俺たちは反応しなかった。

訪問者はわかっていたし、彼女がこの状況を邪魔しない確信もあったから。

もうほとんど火に覆われた紙を石畳の上に落とす。

グナが目を開ける気配と同時に振り返り、俺はガレージを出た。

「お待たせ致しました」

馬車の窓に声をかけると、ミシェルは無言で馬車を降り、ガレージへ向かった。

 

 

 

「殺した人の資料を燃やすのは、罪の記憶を消すためですか?」

辛辣だね。

「逆ですよ、ミシェル。忘れないためです。外部記憶が無いのですから、内部記憶に残すしかないでしょう?」

「詭弁ですね」

ミシェルの声は泣きそうだった。

彼女の目はその言葉に反していつも、攻撃的で媚びない。

でも、その攻撃性は何よりも、剥き出しの彼女自身に、最も襲い掛かる。

彼女は己の無力を感じる度、その攻撃的な心で、自分の心を殺しているんだ。

何度も、何度も。

ずたずたに。

罪があるのは貴女ではなく世界の方だと、甘く囁いてあげても、

彼女は言葉だけで同意し、また自分を殺し続けるのだろう。

本当にいつもの事とはいえ…可愛想なくらい、難儀な人だ。

 

 

 

 

「触れる前の交差点」 TEXT 「接触」