「荒廃街の場末」―SIDE K
僕はまた嘔吐した。
独特の悪臭が鼻を撫で、顔に纏わり付く。
生理的な涙が頬を伝い落ちた。
それに促されるようにまたえずく。
もう胃液しか、出ない。
「カルマ、いい加減にしなよ」
ノックもなくドアが開いた。
僕は思考が追いつかなくて、ぐったりしたまま虚ろな目でシナルクを見上げた。
シナは怖い顔してても美人だ、と再確認。
途端、また込み上げてきた吐気に顔をバケツに戻す。
「あたしを見てゲロ吐くなんて、此の世に未練は無いみたいね」
シナは唇だけで笑った。
その顔をぼうっと見ながら、僕の視界は歪み……。
ばちゃん、という音と顔を襲った衝撃で目が覚めた。
顔を滴り落ちる水…。
青いタイルが目に入って、そこがまだバスルームだと分かった。
「目、覚めた?さっさと顔洗って」
シナは洗面器いっぱいに水を汲むと、その水を容赦無く僕の顔に叩き付けた。
僕は口に入った水で咳き込みながら口内を洗う。
「シナ…」
ありがとう、と言うつもりだったのに、シナはくるりと僕に背を向けて、バスルームを出て行ってしまった。
腰近くまである長く赤い髪を揺らす後姿を見送って、ぼんやりしていた僕は、
「カルマ!」
という彼女の怒声に呼ばれて、慌ててその後を追った。
カウンターに肘をついて頬杖をつき、シナは気だるそうにグラスを弄んでる。
僕は顔を拭きながらおずおずとその隣のスツールに座り、シナの横顔を覗いた。
「…何人殺したのよ」
シナは僕の方は見ず、グラスの中の赤い液体を見ながら言った。
「……2人。ケガさせたのは3人…」
もう吐くものなんて残ってないのに、また気分が悪くなってくる。
シナは舌打ちして、グラスの中身を一気に飲み干した。
鬱陶しげに赤い髪をかき上げ、ドンッとカウンターを叩いた。
「たった2人くらいで何情けない顔してんのよ。この街じゃたいしたことじゃないでしょ…。
刻示なんか、数分でその10倍以上殺すこともあるんだから」
苛立った口調で吐き捨てるように言うと、煙草に火を点けた。
刻示さんはシナの恋人で、この国最大のマフィアの幹部だ。
そんな人と比べられても、困る。
「でも、刻示さんは…」
「とにかく!」
ドンッとシナはまたカウンターを叩いた。
「辛気臭い顔してんじゃないわよ。殺すたびに店の奥で吐かれる方の身にもなりなさいよ」
それには反論も出来なくて、僕はうな垂れるしかない。
「ごめんなさい…」
シナはもう2本目の煙草を咥えた。
もともとヘビースモーカーだけど、僕が吐いた日は特にペースが速くなる。
申し訳なくて、僕はますます俯いた。
「…自分自身さえ守れなくて死んでいく奴がこの街には大勢いる。殺されるくらいなら殺しなさい」
‘殺されるよりは殺せ’
僕が誰かを殺したとき、シナは毎回言う。
僕の罪悪感を軽くしようと。
「うん。…わかってる」
少しもわかってないけど、僕は肯定した。
まだ吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて揉み消し、シナはスツールを立った。
カツカツとヒールの音を響かせながらカウンターの中に入って、
床下から大量の氷で満たしたアイスボックスを取り出す。
中から冷え切った白ワインのボトルを抜き取り、カウンターに置いた。
シナは赤が好きだから、白ワインは僕のために用意してくれているんだと思う。
刻示さんはワインなんて飲まないし、極たまにここに来るお客さんも、飲むのはスピリッツばかりだから。
目だけでちらっとシナを見上げた。
まだ少し不機嫌そうだけど、カクテルをつくってくれるってことは許してくれるってことだ。
白ワインに次いでクレーム・ド・カシスをグラスに注ぐシナの綺麗な手を見ながら、
つくづく僕はシナの優しさに甘えてると感じた。
「はい」
目の前に置かれたのは、僕の好きなキール。
刻示さん曰く、「お子様向けのオレンジジュース」
「ありがとう…」
馴染んだ香りに頬が緩んだ。
「飼い犬に餌をあげるのは主人の義務よ」
ふんっと鼻で笑う。
数年前、路上で拾われたときから、僕はシナのペット、らしい…。
一応、迷惑をかけてる代わりとして店の用心棒をやらせてもらってるんだけど…。
確かに大したことはしてない。
シナが刻示さんの恋人だってことは、みんな知ってるから、誰もこの店を荒そうだなんて思わないんだ。
お客さんだって、ほとんどが刻示さんかシナの知り合いの人。
普通の人は店の前を通ることさえ避ける。
…黒字だとは到底思えない。
シナに訊いたら怒るだろうから訊かないけど。
シナはさっき飲んでいたのと同じ赤いカクテルを自分のグラスに注いだ。
「シナ、それって」
「へぇ、知ってるの。刻示が飲んでみろってトマトジュース送ってくれたの」
辛口のブラッディ・マリー。
刻示さんが前言ってた。
シナの真紅の髪には、鮮血だって敵わない。
血が引き立て役になるくらい良い色なんだって。
だから絶対にブラッディ・マリーが似合うって。
「血まみれメアリ…ね。言うじゃない。悪くないわ」
こんな戦乱の中、カクテルに使う上質なトマトジュースを探すのは大変だったはずだ。
正規のルートじゃ手に入らないだろうから、間違いなく密輸。
僕の考えてることが分かったようで、
「あいつ、あたしにべた惚れだから」
さらりと、シナは言った。
顔色も変えず、笑ってもいなかったから、一瞬分からなかったけど、惚気…だよね、これって。
何か言葉を探して、結局何も思いつかなかった僕が顔を上げると、シナはうっすら微笑した。
気付いたのがすごいくらい小さな変化だったけど、シナの機嫌が良くなったことを僕は確信した。