「某喫茶店にて緑色の現状把握」 ----------------------------------------------------
仲間内では誰もが知っているが、キョウと呼ぶのが暗黙の了解になっている。 名字は分からない。
意味を捉えかねる会話にも大分慣れて来た。
「ガッコってどこのー?つーかなんで行き倒れてたわけ?」
俺は沈黙する。
最寄り駅や住所、電話番号など、肝心なことが少しも出て来ない。
たのかはさっぱり思い出せない。 気がついたときには、長い黒髪とキツい目を持つアジア系外人モデルが映った広告をぼんやり見上げな がら、街の真ん中に突っ立っていたのだ。
俺が記憶喪失になったと思ったらしく(こいつの立場にして見れば間違いでもないのだが)俺以上に取り乱 して、キョウを呼び出してくれた。
目下の問題は……帰れない、ではなく、切実に帰りたいと、俺が思っていないことだ。 キョウの奴も俺がここにいるのが当然といった態度で、俺の記憶が戻ったことで何か現状を変える気は無 いらしい。 俺自身は何故か少しも焦燥感が無く、こんなところで茶を飲んでる始末だ。
溶けたチョコレートアイスを飲むように喉へ流し込む姿から、俺は目を逸らした。 邪気の無い男だ。 偽善者でも無い。 記憶が戻ったときに側にいたのが南部ヨウヘイで良かったと思う。 もしいたのがあの女だったら、俺は何も分からなくとも逃げ出しただろう。 警察に駆け込むなんて真似をすることになったかもしれない。
「……」 「んで、そのすぐ後くらいにユ……あんたを拾って来て、病院連れてったら記憶喪失って分かってー」 南部ヨウヘイは通り掛かった店員にメロンクリームソーダのおかわりを注文した。 「いろいろ言ってた医者をシカトして同居し始めたってわけ」
無意味にストローで氷をかき回している味覚異常者の前に、二杯目のメロンソーダが運ばれて来た。
ス、生クリーム、フルーツ、シリアルで満たされていたグラスを下げて行った。
「ユキはヨーヘーって」 「…ヨウヘイ、ユキは」
それを聞いてどうする。 俺はユキではないし、ユキのことを知って何かする気があるわけでもない。
記憶が抜け落ちていることがやはり不安なのか。 俺の知らない、俺では無い俺。 不安だとしてもユキを知ることなど無意味だろ。 するべきことは分かっている。 所持品を調べて記憶の手掛かりを探し、元の生活に帰ることだ。 なのに、昨日俺があの部屋で触ったものは、衣類と悪趣味なベッドだけ。 何がしたいんだ…。 自分に呆れる。
てっただけだし」 ヨウヘイは携帯を取り出し、電話をかけ始めた。 「今暇ー?ユキが会いたいらしーんだけど来れるー?」 俺は渦巻いた多数の言葉を飲み込み、南部ヨウヘイよりは会話が成立する奴が来るように願った。
「なんで?」 「キョウのとこ居辛いなら、うち来る?」
ヨウヘイの彼女、三嶋カリンの提案は丁重に断る。
昨夜は選択肢がなかった。 キョウ相手に妙な気を起こすとは思えないが、またあのベッドであの女の横で寝るのは気が進まない。
「マジかよ…」 「だから泊めてくれ」
「いいけどよー俺の部屋俺が寝るのでいっぱいいっぱいなんだよなー」 どこで寝かせればいいんだーとブツブツ言っているヨウヘイを押しやり、カリンが俺の前に進み出た。
「手紙を置いて来た」
帰るわけじゃない。 荷物のこともあるし、明日はまた会いに行くつもりだ。 カリンの顔は言葉にするより分かりやすく、不愉快だ、と意思表示した。
の?」 「キョウにとっても、今の俺は見知らぬ他人だ」
化粧で強調されたデカい目は雄弁だ。
俺が何も言わなければ、きっと奴は何も気にせず、昨日と同じように、食事と風呂と寝床を俺に提供してく れるだろう。 そんな奴に「お前の部屋には泊まれないからホテル代をくれ」ってか? 正気の沙汰じゃない。
態度を不愉快から不機嫌に緩和させて、カリンが喋り出す。
「着替え持って、うちに来て。今晩は二人とも私の家に泊めるわ」 アクセサリーのような腕時計で時間を確認してから、俺に目で言い渡した。
「パパの単身赴任先に渡米中」 「ぅえ!?聞いて無い!いつから!?」 「先週。言ったらうちに入り浸るでしょ?『若い男が頻繁に出入りしてる』なんてご近所で噂になって、ママ に知れたら、外出禁止になっちゃう」 カリンは言葉に詰まっているヨウヘイを尻目に、あなたは着替え持って来たのよね、と俺の持って来た紙 袋に目を走らせる。 世の中はバランス良くできてる、と妙に感心した。
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