未無題 −2日目− 

「某喫茶店にて緑色の現状把握」

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キョウの本名はキョウコというらしい。

仲間内では誰もが知っているが、キョウと呼ぶのが暗黙の了解になっている。

名字は分からない。


南部ヨウヘイはそういったことを長い閑話休題を挟みつつ話した。


「んでさ、ユキは…じゃねー、えーっと…ヨシハルは、結局誰なわけ?」

意味を捉えかねる会話にも大分慣れて来た。


「名前はショウノヨシハル。学生だ」

「ガッコってどこのー?つーかなんで行き倒れてたわけ?」


ズズっと目に痛いメロンクリームソーダをストローで啜りながら、南部ヨウヘイは上目遣いにこちらを見た。

俺は沈黙する。


家族構成、友人たちの顔、幼少時代の思い出、最近買ったパソコンの銘柄は思い出せるのに、学校名や

最寄り駅や住所、電話番号など、肝心なことが少しも出て来ない。


話では数ヶ月前、キョウが「拾った」の一言と共に気を失っている俺を連れてきたらしいのだが、何があっ

たのかはさっぱり思い出せない。

気がついたときには、長い黒髪とキツい目を持つアジア系外人モデルが映った広告をぼんやり見上げな

がら、街の真ん中に突っ立っていたのだ。


その時一緒にいたのが、この南部ヨウヘイだ。

俺が記憶喪失になったと思ったらしく(こいつの立場にして見れば間違いでもないのだが)俺以上に取り乱

して、キョウを呼び出してくれた。


その判断が有り難いことだったのかどうかは未だに判らない。


その後のことはともかく、奴の簡潔な説明でとりあえず事態は把握した。

目下の問題は……帰れない、ではなく、切実に帰りたいと、俺が思っていないことだ。

キョウの奴も俺がここにいるのが当然といった態度で、俺の記憶が戻ったことで何か現状を変える気は無

いらしい。

俺自身は何故か少しも焦燥感が無く、こんなところで茶を飲んでる始末だ。


「まぁ思い出すまでゆっくりすればいんじゃねー?いざとなったらキョウが何とかしてくれるって」

溶けたチョコレートアイスを飲むように喉へ流し込む姿から、俺は目を逸らした。

邪気の無い男だ。

偽善者でも無い。

記憶が戻ったときに側にいたのが南部ヨウヘイで良かったと思う。

もしいたのがあの女だったら、俺は何も分からなくとも逃げ出しただろう。

警察に駆け込むなんて真似をすることになったかもしれない。


「付き合ってた彼女が外国行っちゃうとかで、遠距離は無理だからーって別れたんだよ」

「……」

「んで、そのすぐ後くらいにユ……あんたを拾って来て、病院連れてったら記憶喪失って分かってー」

南部ヨウヘイは通り掛かった店員にメロンクリームソーダのおかわりを注文した。

「いろいろ言ってた医者をシカトして同居し始めたってわけ」


やっぱ寂しかったんかなーと呟く。

無意味にストローで氷をかき回している味覚異常者の前に、二杯目のメロンソーダが運ばれて来た。


店員は目で了承を取って俺のカップにコーヒーを注ぎ足すと、メロンソーダで満たされていたグラスと、アイ

ス、生クリーム、フルーツ、シリアルで満たされていたグラスを下げて行った。


「南部」

「ユキはヨーヘーって」

「…ヨウヘイ、ユキは」


どんな奴だった。

それを聞いてどうする。

俺はユキではないし、ユキのことを知って何かする気があるわけでもない。


「ユキ?」

記憶が抜け落ちていることがやはり不安なのか。

俺の知らない、俺では無い俺。

不安だとしてもユキを知ることなど無意味だろ。

するべきことは分かっている。

所持品を調べて記憶の手掛かりを探し、元の生活に帰ることだ。

なのに、昨日俺があの部屋で触ったものは、衣類と悪趣味なベッドだけ。

何がしたいんだ…。

自分に呆れる。


「ユキのことは俺よりも俺の彼女の方が詳しーんだよな。仲良かったし。俺は面白そーだから病院に付い

てっただけだし」

ヨウヘイは携帯を取り出し、電話をかけ始めた。

「今暇ー?ユキが会いたいらしーんだけど来れるー?」

俺は渦巻いた多数の言葉を飲み込み、南部ヨウヘイよりは会話が成立する奴が来るように願った。



***



「なんで?」

「キョウのとこ居辛いなら、うち来る?」


ヨウヘイに今晩泊めてくれと頼んだ。

ヨウヘイの彼女、三嶋カリンの提案は丁重に断る。


「俺は同性愛者じゃないから、女の部屋には泊まれない」

昨夜は選択肢がなかった。

キョウ相手に妙な気を起こすとは思えないが、またあのベッドであの女の横で寝るのは気が進まない。


二人は驚いたらしく、まじまじと俺を見た。

「マジかよ…」

「だから泊めてくれ」


ヨウヘイは渋い顔になり、あーだのうーだのと唸り出す。

「いいけどよー俺の部屋俺が寝るのでいっぱいいっぱいなんだよなー」

どこで寝かせればいいんだーとブツブツ言っているヨウヘイを押しやり、カリンが俺の前に進み出た。


「キョウは何て?」

「手紙を置いて来た」


記憶が無いとはいえ、今まで世話になっておいて挨拶もせず出て行くのは多少気が引けたが、別に家に

帰るわけじゃない。

荷物のこともあるし、明日はまた会いに行くつもりだ。

カリンの顔は言葉にするより分かりやすく、不愉快だ、と意思表示した。


「あなたにとっては見知らぬ他人でも、キョウにとってあなたは大切な人なのよ?相談もせずに出て来た

の?」

「キョウにとっても、今の俺は見知らぬ他人だ」


テラテラ光る唇を引き結んで、俺を睨み付ける。

化粧で強調されたデカい目は雄弁だ。


「相談ぐらいすりゃー良かったのに。キョウならホテルのひとつふたつ、きっと用意してくれたぜ?」


冗談じゃない。

俺が何も言わなければ、きっと奴は何も気にせず、昨日と同じように、食事と風呂と寝床を俺に提供してく

れるだろう。

そんな奴に「お前の部屋には泊まれないからホテル代をくれ」ってか?

正気の沙汰じゃない。


「仕方ないわね。ヨーヘー、今晩うちに泊まれる?」

態度を不愉快から不機嫌に緩和させて、カリンが喋り出す。


「へ?別に泊まれるけど…」

「着替え持って、うちに来て。今晩は二人とも私の家に泊めるわ」

アクセサリーのような腕時計で時間を確認してから、俺に目で言い渡した。


「え?でもお袋さんは?」

「パパの単身赴任先に渡米中」

「ぅえ!?聞いて無い!いつから!?」

「先週。言ったらうちに入り浸るでしょ?『若い男が頻繁に出入りしてる』なんてご近所で噂になって、ママ

に知れたら、外出禁止になっちゃう」

カリンは言葉に詰まっているヨウヘイを尻目に、あなたは着替え持って来たのよね、と俺の持って来た紙

袋に目を走らせる。

世の中はバランス良くできてる、と妙に感心した。





「箱入り娘に絡まれる」