未無題 −1日目− 

「記憶復帰とヒロイン紹介」

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足を踏み出した。


いや、違う。


気がついた直後に足が一歩前に出たってだけで、多分俺は歩いてたんだ。

俺は両足が不揃いな状態で止まった。

化粧品会社のCMだと思われるデカい広告をぼんやりと見上げたまま、


「は…?」


呟いた声は、むわっと顔を撫でた初夏の風にさらわれた―――。



***


絵も花もない玄関。

細いアルミによる螺旋構造の傘立ては、立ててある透明なビニル傘一本以上の収容はできそうにない。


意外だ。

もっと嗜好品に金をかけたがる性格かと思った。


広いリビングダイニングも酷く殺風景だった。

木製の家具と白いカーテン、薄型テレビは一人暮らしとしては大きめだが、規格外というほどでもない。

カーテンと同じ真っ白なソファは置物にしか見えなかった。


「コーヒーと紅茶がある。どちらにする」


リビングを横切って一続きになっているダイニングキッチンの椅子を示される。

喫茶店にあるようなスツールの椅子はよそよそしい。


「コーヒー」


俺の選択にキョウは無表情になり、目を逸らさない俺としばし見合った。

俺が何か感情を抱く前にふいっと視線を外して、食器棚からカップを二つ取り出す。


ガラス戸の食器棚にはほとんどものが入っていない。

カップは今キョウが出した二つだけで、皿は平皿と深皿と小皿がそれぞれ二枚ずつ、グラスも対のものが

二つ、並んでいるのはそれだけだった。

ただのディスプレイのようだ。


「砂糖とミルクは」

「ミルクだけ」


キョウは冷蔵庫から牛乳の1リットルパックを取り出し、インスタントコーヒーと一緒に俺の前に置いた。

冷蔵庫を開くこいつの姿など、異色すぎて非日常的な光景のはずなのに、あまりに自然だった。


役者のようだ。

このガランとした部屋も紅茶を注ぐ奴の指も、嘘くさい。


別にコーヒーだろうと紅茶だろうと、どっちだってよかったのだ。

さらに言えば、喉は渇いていない。


紅茶の入ったカップを手に俺の隣に座ったキョウは、

優雅と言える動作で一度口元まで持ち上げたカップを、ふっとテーブルに戻した。

少し間を置いて、俺の前に立ててあった牛乳パックを手に取る。


そして勝手に俺のカップに注ぎ始めた。

速くも遅くもない動きだったのに、俺は何も言えず、傾けられて、また直立する牛乳パックを見ていた。


「飲まないのか」


台詞だ。演技だ。間の取り方も。すべて。


カップを持ち上げる。


満足そうな顔をされて、飲んでもいないコーヒーの苦味を感じた。



***


「ユキも同じ反応だった」


なんだ、この差は。


寝室は、今までの部屋と扉ひとつで繋がっているとは思えない乱雑さだった。


新聞、雑誌、手紙、書籍などがそこかしこに積まれ、壁にはメモや写真が不規則に張り付けられている。

キングサイズのベッド上にも、抱き枕なのか縫いぐるみなのかよく分からないものが散乱し、寝るスペース

が無い。

目を引く大型デスクトップパソコンの画面にはスクリーンセイバーが踊り、AV機器はクラシックのリミックス

をアップテンポで流していた。


「君も好きに使うといい」

「俺の荷物は」


キョウは備え付けのクローゼットを開けた。


「服はここだ。私のものもあるが、ユキも私も気にせず好きなものを使っていた。この一角は引き出しや本

棚を含め君のものだ」

「部屋は」


あぁ、とキョウはわざとらしく声を出した。


「君はこの部屋で寝起きしていたよ」

「…お前はどこで寝ていたんだ」


ハッと鼻で笑う。


「分かり切ったことを」


うんざりした。

ままごと人形にでもなった気がする。

茶番ばかりだ。

さっきやっとの思いで飲み干したコーヒーが胃を浸食している錯覚。

飲むんじゃなかった。

いくらこいつが含みのある物言いをしても、何かあるはずもない。

俺たちが共同生活をしていたのは―――


「それは違う。君が考えようとしていることは事実だが、すべてでは無い」

キョウを見る。

俺は無表情ではないが、表情豊かでも無い。


「分かるさ。付き合っていたんだから。端的に言えば」

「話が違う」

猫のように笑う。にんまりと。胸糞が悪い。

「互いにリアリスティックな同性愛者だから、トラブルが起きる心配もなく、友人同士として同居している」


ユキは同性愛者だったらしい。

俺は異性愛者だ。


「そう聞いた」

「確かに、そう言った」

もったいぶる間の取り方に苛々する。


「だが結果として私とユキは、つまり私と君は、交際関係にあった」

「俺はユキじゃない」


普通に返したつもりだったが、雑然とした部屋に響いた言葉はクラシックのBGMを切り裂き、突き放す音に

なった。


にやにや笑っていた顔が一瞬で真顔になる。


「まぁ、そうだな」


興味を失ったように、キョウは俺から目を逸らした。

何を考えているのか、まったく理解できない。


何から聞くべきなのか、それとも藪をつつかないよう黙っていた方がいいのか、それすら判断できず立ち尽

くす俺を気にも留めず、キョウはベッドから細長い縫いぐるみを持ち上げた。


「これが何か分かるか?」


唐突だ。ガラリと部屋の空気も変わった。

さっきの話を続けられるよりはマシだと判断し、それを注視する。

手足も胴体も長い。暖色系のマーブル模様。目や鼻や口は無い。


「さぁな。生き物には見えない」


俺の答えを聞き、キョウは嬉しそうに声をあげて笑った。

奇妙な縫いぐるみを抱き締める。

もともと理解できない人間の急な変貌に思考が付いて行けず、複雑な気分になった。


「ヒトデ、だそうだ」

「…そうか」


他に言い様が無い。


「ヨシハル」


初めて、キョウは俺の本名を呼んだ。


「これは、ユキがくれたものだ」


だから、何だと言うんだ。

喋るための言葉は浮かんだが、口には出さなかった。

それよりも。

浮かんだ直感。

もしかしたら本当に、キョウとユキは恋愛関係にあったのかもしれない。

少なくとも、キョウはユキが好きだったのだ。

この表情が演技でないのなら。





「某喫茶店にて緑色の現状把握」