――――「慈愛」

 

あれは事故なんかじゃなかった。

 

彼女の左眼は見えなかった。

彼女の左耳は聞こえなかった。

黒曜石のような瞳がどんなに綺麗でも、それでもその眼は見えなかったのだ。

絶対に僕の話を聞き漏らさなくても、それでもその耳は聞こえなかったのだ。

僕はいつも彼女の左側に立って、歩いた。

彼女の見えない眼に、自分が映るのが嬉しかった。

聞こえない耳が、自分の話に傾くのが嬉しかった。

 

その日は雨が降っていて、見通しが悪くて。

僕はいつものように彼女の左を歩いていた。

もうすぐ彼女の誕生日で、欲しいものを聞き出すのに必死だった。

夢中に、なりすぎてたんだ。

馬鹿みたいに。

甲高いブレーキ音を聞き、認識して、振り返ったときには、もうそのトラックは目の前だった。

急に時間の速さが変わる。

すべての動きがスローモーションで、ゆっくりゆっくり、音もどこか遠くで鳴っていて、悲鳴や、クラクションや、雨の音が。

僕の動きも、遅くて遅くて、それでも彼女を突き飛ばそうと、手が伸びた。

彼女が僕を見上げるのすら、ゆっくりで。

その綺麗な目が、僕を捉えて、その時僕は、彼女の見えないはずの左眼が、僕を「見て」いる気がしたんだ。

僕の手が彼女の肩に触れる瞬間、彼女は微笑んだ。

車が見えなかったのだ。

音が聞こえなかったのだ。

気付けなかったのだ。

彼女は肩を引いて、僕をいなした。

よく解らないまま、僕は馬鹿みたいに派手につんのめって、地面に転がった。

それすら遅くて、転がりながら彼女の顔が、逆さまに見えた。

彼女は微笑んでいた。

見えるはずの無い左眼から、信じられないほど綺麗な涙を零して。

それが彼女の頬を伝うのを、コマ送りのように回りながら見た。

綺麗な涙が、地面に落ちてしまうのを、惜しいと思ったとき、僕の視界からその美しい微笑が消えて、代わりに空が見えた。

雨が降ってくる。

黒い雲の隙間から、青空が切れ切れ覗いていた。

空が晴れるまでに、彼女が泣き止めばいいと思った。

ガチャン

馬鹿みたいに転がっていた僕は、フェンスにぶつかり。

現実に、引き戻される。

次の瞬間、大型トラックの煌びやかなライトが、目の裏でフラッシュバック。

頭が真っ白になって、脳が、体が、心が、麻痺したように痺れて。

哀願の絶叫を上げて、体を起こす。

やっぱり遅い。

雨さえも遅い。

振り返って、彼女の元へ。

ガンッ

目の前で、車が彼女にぶつかった。

手の届きそうな位置で、彼女の体は宙を舞った。

ゆっくりと弧を描き、ゆっくりと、落ちる。

音にならない悲鳴が、わずかに空気を揺らして、僕はがむしゃらに、重くて仕方が無い足を動かして。

雨の打ち付ける硬い地面に、その肢体が跳ねて、打ち臥す。

彼女の傍に跪くと、その首は、あってはならない方向に向いていて。

いつも、どんなときでも美しかったその瞳が、今は、ものを「映す」ことすらしていなかった。

それはすでに彼女ではなかった。

「彼女の器だったもの」だった。

雨に消されかけている涙の軌跡が、唯一、彼女がいた証だった。

彼女はどこにもいなかった。

「…あ…あァ…」

震えた掠れ声を漏らしているのが自分だということすら、気付かなかった。

「あ"あ"――ッッ」

 

どうして…?

どうして、あのとき貴女は泣いたの…?

どうして…逃げなかったの?

…僕は、相談する価値も…なかった…?

…とてもおこがましいけれど、貴女を…守りたかった…

傷ついた貴女の左にずっと、居たかった…貴女が、何よりも大切だったのに…

貴女を愛していたのに……

 

あれは、事故なんかじゃなかった。

事故なんかじゃ…なかったんだ…。

 

 

SIDE B