――――「狂愛」
あれは事故だった。
母に蹴飛ばされ、私の左眼は失明した。
父に殴られ、私の左耳の鼓膜は破れた。
その後、悪夢は私の意識が飛ぶまで続いた。
左肩が脱臼して、左肘は折れた。
あばらが一本砕け、左足はあらぬ方向を向いていた。
叫ぶ力など、残っていなかった。
私を見下ろす四つの目に映るのは、蔑みと憎悪と怒り。
…愛なんて、知らなかった…。
生きる希望も死ぬ気力も無く、なにもかもどうでもよかった私は、彼に出会った。
生まれて初めての、激しい衝動。
優しい彼は、いつも私の左に立って、左を歩いて。
私が驚かないように私の顔を真正面にして話した。
見えていないと知っているのに、私の両目を見て笑った。
すべてが、痛いくらい暖かい。
彼といるときに感じる、体がバラバラに千切れそうな痛みが、「幸せ」なんだと、気付けたのは最近になってから。
自覚した途端、私は恐怖に震えた。
この幸せが、いつか消えてしまうことに。
片目の見えない、片耳の聞こえない私と、彼が共に過ごしていくには、社会はあまりに冷たすぎる。
あの優しい瞳を冷ややかに、「迷惑だ」と言われるくらいなら、今この幸せの絶頂で殺して欲しいと、どんなに神に祈るだろう。
私は毎日、彼を失う恐怖に怯えながら、それでも少しでも長く彼の隣にいたいと、それだけを願っていた。
その日は雨で、午後には晴れると言っていたのに、夕方になっても小雨が空気を湿らせていた。
彼はいつものように私の左を歩く。
まだ一ヶ月も先の誕生日を気にして、それとなく私の欲しいものを、聞き出そうと一生懸命な彼が可愛くて、私は頬が緩んだ。
本当に自然な動きで、私の顔を覗き込むようにして話す彼の優しさも、嬉しかった。
幸せだと、とても幸せだと改めて感じたとき、彼のはにかんだ笑顔の向こうで、大型トラックが雨にスリップするのが見えた。
真っ直ぐ、こっちに向かってくる。
その瞬間、私は――。
私はじっと彼の目を見た。
綺麗な綺麗な瞳。
貴方はいつも私の目を綺麗だと言うけれど、どこがだろう?
片方はただのガラス玉で、
片方は今、貴方の背中に向かって走るトラックを見ているのに、焦るどころか微動だにしないというのに。
急ブレーキが、耳をつんざく。
彼が振り返った。
澄んだ瞳が見開かれ、間を置かず私に向き直る。
そして想像していた通り、私の左肩へとその右手を伸ばす。
必死な顔が嬉しくて、小さく笑った。
彼の手が肩に触れる寸前で、私は体を反らせて、彼を避けた。
勢い余った彼が、コンクリートの歩道に転がる。
一瞬、目が合う。
気付かせてはいけないのに、これ以上彼に重荷を背負わせてはいけないのに、笑おうとした私は、泣いてしまった。
見えていないはずの左眼が一粒、涙を流した。
もう、彼をその目に映せないことを嘆いて。
もう、彼が自分を忘れないであろうことに歓喜して。
雨はいよいよ細かく、針のように降っていた。
雲の切れ目から青空が見える。
そして、雨でぼやけたトラックのライトが視界を満たし…。
彼の悲鳴が聞こえた。
雨上がりの空が、彼を慰めてくれるといいと思った。
全身に轟音と衝撃。
―貴方を愛しています
優しい貴方は、目の前で死んだ私を忘れないでしょう
悪夢のように、私の影に囚われるでしょう
卑劣な私は、貴方が苦しむことよりも、貴方が私を忘れてしまうことの方が悲しいのです
でも…でも…、もし神様がいるのなら、許されるのであれば、彼に伝えてください
あれは、事故だったのだと…
貴方は、何も悪くないと……
あれは、事故だった。
そう、事故だったの…。