「恋患い」
「好きです…、付き合ってください」
馬鹿みたいに突然で、抗えない、一目惚れだった…。
「ごめん!今日一緒に帰れなくなっちゃった」
未束は胸の前で手を合わせ、軽く首を傾けた。
俺の大好きな、可愛くて魅惑的な笑顔を見せる。
それだけで、俺は魔法にでもかかったみたいに、ただ、
「え…あぁ、わかった…」
と無理やり笑い、何も気にしていないふりをして、彼女を送り出す。
付き合い始めて2ヶ月。
未束は毎日のように男達と連れ立って去って行く。
こんな言い方したくないが、所謂、男遊びが激しいというやつだ。
以前彼女を咎めたら、きょとんと俺を見て、
「でも、付き合ってるのは海里だけだよ」
と笑った。
…都合よく懐柔されてるのは解ってる。
それでも俺は、未束が好きで、別れるなんて出来ないんだ…。
俺が未束と出会ったのは1年と少し前の高校の入学式。
俺と同じクラスに、友達と笑いながら入っていく彼女を見たのが最初だった。
ちょっと悪戯っぽい笑顔が印象的で、凄く可愛い子だった。
告白したのは2年になってすぐで、俺から。
1年間、ただの良い友達だったし、驚かれるかと思ったけど、
未束は一言、
「うん」
とだけ答え、俺の思考を一瞬で停止させる笑みを浮かべた。
俺は有頂天になったけど、その直後から急に、
未束の男遊びが始まったんだ…。
「ねぇ、今日、うちに来ない?」
未束はいつもと同じ、俺の頭をクラクラさせる笑みで言い、
家の鍵を俺の目の前にちらつかせた。
「先に行って、部屋で待ってて。ちょっと遅れるから」
指で弄んでいた鍵を俺の手に握らせ、彼女は再度微笑むと、
返事も聞かずに教室の外に消えた。
いつも未束は突然だ。
彼女の思惑通り、反論も出来ずに言いなりな俺にも、原因はあるけど。
そんな風に、愚痴を浮かべながらも、
久しぶりに彼女と過ごせると思うと、嬉しくて、
俺は手早く帰り支度をして、足取り軽く、彼女の家へ向かった。
1年のとき、俺と未束は本当に仲が良かった。
傍から見ると、付き合ってるんじゃないかってくらい。
放課後は、飽きもせずにくだらないことを延々と話して。
テストが終わる度に他の友達も誘って、みんなでカラオケに行って。
お互いの家にも何度も行った。
おばさんは俺をずいぶん気に入ってくれて、母さんも未束を好いていた。
2人とも、俺と未束のこと、多分誤解してた。
それくらい、親密に見えたんだと思う。
決して恋人同士じゃなかったけど。
むしろ、付き合い始めてからの方が、溝ができて、距離も遠くなった。
未束の家に行くのも、付き合いだしてからは今日が初めてだ。
去年のことをいろいろ思い出して、少し胸を突く寂しさを感じながらも、
それを振り切るように、俺は歩みを速めた。
玄関のチャイムを鳴らして、数秒待つ。
やっぱりおばさんはいないみたいで、預かった鍵を取り出した。
1年ですっかり馴染んだ、勝手知ったる家に入り、
迷うことなく階段を上がって、未束の部屋のドアを開けた。
最後に来たのは、3ヶ月ほど前だ。
カーテンの色が春らしい薄紅になったくらいで、
部屋はほとんど変わっていなかった。
なのに、何故かひどく懐かしく感じて、ベッドに寄りかかり、目を閉じる。
どうして、こんな風になってしまったんだろう。
悪いのは、きっと、俺…。
どうすれば、もう一度、未束と…。
「ありがとね」
ぼんやりしていた俺は、窓の外から聞こえた未束の声に目を開けた。
「うん、また明日」
誰かと、一緒なのか…?
窓の外を見下ろすと、未束と、男が一人。
何度か見たことのある奴だった。
唇を噛む。
状況なんて、全然解らないけど、嫉妬心を抑えられない。
ふと、未束が顔を上げた。
目が合う。
「あ…」
何も悪いことはしていないのに、俺のほうが変に焦った。
未束は焦るどころか、にっと悪戯っぽく笑い、
俺の目を見ながら、細い腕を男の首に回して…、
濃厚なキス。
俺は唖然として、ただ、見ているだけ。
未束は一瞬も、俺から目を逸らさなかった。
俺も、そんな余裕無かった。
果てしなく、長い時に感じた。
呆然とする俺から未束はやっと目を離し、男から離れる。
男を一瞥すると、家のドアをくぐった。
俺は窓辺に立ち尽くしたままだった。
階段を上がる未束の足音。
俺は諦めてるふりして、どこかで信じてたんだ。
付き合ってるのは海里だけ、と言った、未束の言葉を。
未束が本当に好きなのは、俺だけだって。
パニックなんかじゃない。
真っ白だ。
何も、無い。
「ただいま、海里」
いつも通りの小悪魔の笑み。
「…どうして?」
声が震えた。
「何が?」
「どうしてだよ…」
未束の顔が滲む。
「先に俺のこと好きだって言ったのは、未束じゃないか!」
入学式の翌日だった。
「好きです…、付き合ってください」
昨日教室で見た、笑顔の可愛い女の子。
話したこともないのに、呼び出されて、こんな状況だ。
「え…?」
「一目惚れなんです…」
彼女は、近江未束と名乗った。
一目惚れ、と言われても、突然すぎて。
「あ、その…俺、君と話したことも無いし…ごめんね」
俺は彼女から逃げるように立ち去った。
どうしようもない罪悪感を感じていた俺が、次に彼女と会ったのは、そのまた翌日。
まるで何も無かったかのように友達と、
「初めまして、よろしくね」
と笑った。
告白されたなんて、夢なんじゃないかってくらい、自然に。
俺の違和感は、未束の笑顔に麻痺していき…、
未束と俺は急激に仲良くなった。
「もう、俺のことなんて好きじゃなかったのか…?」
ずっと、訊けなかった。
あの日、一度、未束を傷つけた罪悪感は、
彼女に惹かれるのと比例して、俺を苛んだから。
「今もまだ好かれてるんじゃないかとか、勘違いしてる俺に、同情しただけ…?」
「海里」
未束は俺の名前を呼んで、話を止めた。
「私、海里のこと、今も好きだよ」
じゃあ、どうして!
「でも」
叫びかけた俺の声は言葉にならなかった。
「消えないんだ、残像が」
目線を宙に向け、
「海里の冷たい声、困った目、去って行く背中」
諳んじるように言い、
「消えないの。息も出来なくなるくらいの胸の痛み」
歌うように続け、
「だから、復讐」
ゆっくりと、見せ付けるように、笑みを刻んだ。
「苦しんで」
言葉が見つからない。
「その代わり、笑ってるから」
ああ、それでも…
「海里が絶対私を嫌いにならないように、ずっと、笑ってる」
俺はやっぱり、未束が…。
貴方が好き。
大好き。
でもね…あの日の残像が消えないの。
貴方の冷たい声、困った目、去って行く背中。
白昼夢のように浮かんでは、私を苛むあの光景。
怖いの。
どんなに貴方が私を好きだと言っても。
毎日、突然蘇るあれが、正夢にでもなりそうで。
復讐なんかじゃない。
痛みなんて、苦しみなんて、もう忘れたわ。
そんなのじゃないの。
どんなことをしても、貴方が離れていかないのを確認したいだけ。
傷ついてくれる貴方を見て、安堵したいだけ。
あんなもの、ただの過去の亡霊なのに…。
振り回してるのは、私じゃない。
貴方よ。
貴方が好き。
大好き。
離れていかないで。