「薔薇」
ある森の奥深くに石造りの小さな家が建っていました。
その家には大変美しい少女が住んでいて、いつも二階の窓辺で本を読んでいました。
しかし、不思議なことにいつ誰が見ても、少女が家から出ている様子も、他に誰かが家を出入りしている様子もありません。
少女はきっと魔女だと、木こりや狩人たちは噂していました。
ある日、少女の噂を聞きつけたこの国の王子が、少女のところへやって来ました。
森で働く者たちが不安になって、「少女が魔女なのか人間なのか確かめて欲しい」と王様にお願いしたのです。
王子はまだ少年と呼べる年頃でしたが、その剣の強さは国中で右に出る者がいないほどでした。
少女が魔女だったときは殺すようにと渡された長剣を撫で、銀色の髪をさらりと流し、王子は馬から降りました。
見上げた窓辺に佇むのは、話に聞いた通りの優美な少女。
王子は思わずその美しさに見惚れました。
日の光を受けて煌めくたおやかな髪、透き通るような白い頬に碧い目が驚くほど映えた顔。
少女が本のページを捲るまで、王子は立ち尽くしていました。
「すみません」
王子が声をかけると、少女は読んでいた本から顔をあげました。
「城の者です。お話があって参りました」
窓から少し乗り出して王子の姿を確認すると、
「お入りください」
そう言って少女は身を翻し、窓から見えなくなりました。
石造りの家の中は、家具も小物も簡素で、植物や絵画などは一切ありませんでした。
必要最低限なものしか無い質素な部屋は、威厳さえ纏う少女にはあまりに不相応でした。
「どうぞ」
少女に出された紅茶の香りに王子は驚きました。
一口飲んで、予想通りそれがとても高価な茶であることを確信して、王子の碧い目は向かいに座る少女を映しました。
「貴女は、こんなところにいるべきでない、高貴な家柄の方ですね」
少女は曖昧に微笑んで、小さな声で尋ねました。
「どういった、ご用件でしょう」
王子は慌ててカップを置き、座り直しました。
「私はこの国の第一王子、ユリアです」
「第一王子ユリア…」
呟いた少女に、
「あの、生まれる前に占師に女の子だと言われたらしくて、父が女の子の名前を…」
王子は歳相応に顔を赤らめ、説明しました。
「そうなんですか」
まだ大人になる前の中世的な高い声は耳に心地良く、王子は更に赤くなりました。
「名前を伺ってもよろしいですか?」
少女は席を立ち、深くお辞儀をして、
「リノアといいます」
優雅に名乗りました。
「素敵なお名前ですね」
リノアはまた曖昧に微笑みました。
王子はもう一度カップに口をつけ、自分を落ち着けると、意を決して顔をあげました。
「ここに来たのは、ある噂の真相を確かめるためなんです」
リノアは続きを促すように、持っていたカップを置きました。
「失礼を承知で言うのですが、その、噂と言うのは、貴女が魔女ではないかと…」
王子が最後まで言い切る前にリノアは笑い出しました。
「すみません」と謝りながらくすくすと笑い、
「魔女、ですか…」
おかしそうに言いました。
王子は羞恥に俯いて、
「すみません。そんな訳ないですよね、本当に失礼なことを言ってしまって…」
誤魔化すようにカップを手に取りました。
「いえ…。私は魔女ではなく、占師なんです。
訳があって滅多に外に出ませんし、買物などはまとめて人にやらせていて、誤解されても仕方ありません」
「訳?」
リノアの表情が少し曇りました。
「ユリア様の仰る通り、私はある程度名の知れた家の出身で…双子、なんです。
お恥ずかしい話なのですが、跡継ぎをどちらにするか揉めて…。結局、私が家を出たのですが…」
王子は眉を顰めました。
「刺客に狙われている可能性があるんですか?」
王子の強い視線から目を逸らし、苦しそうにリノアは頷きました。
「身分を隠し外見も変え、様々な土地を転々としてここに来たのですが…幸運なことにユリア様にお会いできました。
今の私の立場では、このように会話をすることすら畏れ多いことなのですが…どうかお許しください」
激しく首を横に振り、王子は身を乗り出しました。
「そんなことはありません!もし、よろしければ、もっと詳しくお話を聞かせてください。
そして是非、私の友人として城へ来てください。私が、貴女を守りますから」
王子はこの美しくも不憫な少女に淡い恋心を抱きつつありました。
リノアは泣きそうになりながら微笑み、
「優しいお言葉を、ありがとうございます」
嗚咽を隠すように震える手で口元を覆いました。
王子は慌ててリノアに駆け寄り、その震える肩をそっと包みました。
「…ユリア様」
リノアが王子の腕の中で口を開いたのは、紅茶がすっかり冷たくなってしまった頃でした。
王子はゆっくりと体を離し、その顔を覗き込みました。
「ユリア様には、ご兄弟がいらっしゃいますか…?」
王子は突然の質問に、戸惑いながら答えました。
「はい、歳の離れた弟が。まだ生まれたばかりですが」
「…」
リノアは俯いたまま、
「ユリア様は弟に殺されます」
はっきりと言いました。
「な、にを…」
驚いて王子はリノアを凝視しました。
その隙を、リノアは見逃しませんでした。
細い腕で腰にさしていた王子の剣を抜き、王子の胸へ。
流れるような動作で一瞬の内に。
王子は声を発することもできず、呆然と傷口を見下ろし、リノアへと視線を移すと、白い頬へ手を伸ばしました。
リノアは、ずるっと音をたてて剣を引き抜き、王子の手をかわすように立ち上がりました。
「今、言っただろ。あんたは弟に殺されるって」
王子の声は口をぱくぱくと動かすだけで、音にはなりませんでしたが、
あらゆる感情を含んだ碧い目は真っ直ぐリノアを見据えていました。
リノアは剣を振って血を払い、イスに突き立てました。
「ハジメマシテ。あんたの双子の弟、リノアです」
ブロンドのかつらの下から現れたのは、王子と同じ銀色の髪。
銀髪碧眼は王家の証でした。
「双子の弟だからって生まれてからずーっと日陰生活。もう、うんざり」
リノアは銀色の髪をかき上げました。
「ラッキーだったよ、のこのこ一人であんたの方から来てくれて。女の格好も今日で終わり」
嘲笑を湛えても、リノアの美しさは衰えるどころかさらに美麗さを増しました。
「迫真の演技だっただろ?あんたの反応がおかしくって、笑いを噛み殺すの大変だった」
王子の視界は霞んで、もうリノアの声も遠くなっていました。
「安心してよ。今日からオレがあんたの代わりに王子になるから。ね、兄サン」
心優しく、信望も厚い、国中に慕われていたユリア王子が最期に見たのは、
自分とは似ても似つかないほど美しく冷酷な弟の、甘い嗤笑でした。
愛して止まない与禰さんから頂いた挿絵